「そこをなんとか!是非そこのお店でお話を伺わせていただきたいんですよ!」
「いえ、あの、みんなを待たせてるので」
ライブが終わり、スタオケの面々は次に移動するべく片づけを始めていた。
空はすっかり橙色に染まっていて、闇に落ちる時刻が刻一刻と近づいていた。
『買い出し行ってくるね』
恐らく夕飯は車内ですることになる。そう思った朝日奈は、全員分の夜食を買うべく皆に声を掛けて近くのコンビニへ向かったのだが、その帰り道にスーツに身を包んだ男に声を掛けられ、今に至る。
朝日奈がどんなに穏便に言葉を選び躱そうとしても、困ったことにその男には通用していなかった。
ちらりと視線を巡らせると日はどんどんと暮れていくばかりで、何よりスタオケのみんなを待たせているという焦燥感がより朝日奈から冷静な思考を奪っていく。
残された手段は力づくでの逃走か、と覚悟を決めた時だった。
「お、いたいた」
男の手が、朝日奈の腕に伸ばされようとする。だがその前に掛かった声により男の手は動きを止めた。
朝日奈を口説き落とすことに集中していた男は、こちらへ確かに歩み寄る存在には気づけていなかったのだ。
そしてそれは朝日奈も同様で、どうやって躱すかと考えてばかりだったから、弾かれたように顔を向ける。
そこには、戻りが遅いあまりに探しに来たのだろう桐ケ谷の姿があった。
そこからあっという間に距離を詰めて朝日奈の右隣まで来ると、するりと、桐ケ谷の手が朝日奈の肩に回る。
「……何、うちのに何か用?」
そのまま桐ケ谷は男に見せつけるかのように朝日奈の側頭部に顔を寄せるが、その状態で何事か呟いてもその声は朝日奈にしか聞こえることはない。
曰く、「後は任せとけ」と言うことだった。
その間も桐ケ谷の視線は男へと向けられたままであり、それを伝え終わると桐ケ谷の顔は一旦朝日奈から離れたが、肩に回された手は退く気配がない。
「うちのに何か用かって聞いてんだけど」
わざと「うちの」を強調した上で、桐ケ谷は眼光を鋭くさせる。
それだけで大抵の男は竦み上がるし、この男とて例外ではなかった。
明らかにその顔には焦りが生じている。だがそれでも大したものだ、まだ歯向かうつもりではあるらしい。その度胸に桐ケ谷は内心感心もしたが、表情に出すことはしない。そのまま男から視線も外すことはない。
そして、男のその口が、何か言いたげに開かれた時。
「どうかしたのかい」
「あ、」
そんな男の反撃など許さないとばかりに、穏やかな声が掛けられた。
朝日奈がその声に顔を動かせば、そうこうしている内にその左隣まで刑部が来ている。
呼びかけた声は、肩に回っていた桐ケ谷の指がトン、と肩を叩いたことで止められた。
そんな駆け引きがされているとは露知らず、新たに現れた刑部の理知的な声と様子に言葉が通じそうだと男は安堵しかけたが、それは早計というものだった。
「ひっ」
朝日奈へ向けていた穏やかな視線が、男へと向いた時には豹変していた。
いや、正確にはその口許の笑みは相変わらず穏やかと言っていい。だが、男を捉えたその目は、明らかに常軌を逸していた。
それはまるで、喉元に抜身のナイフを突きつけられているようだった。
冷ややかに、鋭利に、その目が告げている。
『失せろ』
「し、失礼しましたっ…!」
脱兎のごとく男は踵を返して走り出す。
何せ本能的に察知してしまったのだから仕方ないだろう。
『あの男達に関わったら駄目だ』と。
桐ケ谷も刑部も、逃げ出した男を追うことはしなかった。
寧ろ、たかが小物に使う時間が勿体無いとばかり、その意識は朝日奈へと向けられる。
その頃には、二人の纏う空気も常のものに戻っていた。
「行ったようだね。…何もされなかったかい」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
頭を下げる朝日奈の姿を見下ろすと、刑部と桐ケ谷は視線を一瞬だけ合わせて小さく頷いた。
彼女の言葉に嘘はない。そもそもこんな往来で何かをする度胸のある男とは見えなかったが、万が一があった。今回は、間に合ったらしい。
「別にこれぐらい大したことねぇからいいけどな。あんた、あんま一人で動かない方がいいんじゃね?」
肩に回していた手を朝日奈の頭へと移しわしわしと撫でながら、桐ケ谷は笑う。
そして、それには同意らしい。刑部は頷くとにこりと微笑んだ。
「そうだね、これからは俺に言ってくれればいい。コンミス殿の頼みなら何時だってご一緒するよ」
「あ?何ちゃっかり誘ってんだこのむっつり」
「お前こそいつまでそうしているつもりだ。とっととその手を退けろ」
「あの、二人とも、圧がすごい、デス」
この距離で喧嘩しないでほしい。
大体不仲営業はもう終了したはずだ。とはいえ、この姿勢は既に二人に染み付いてしまっているのだろう。
二人にとっては軽口のつもりかもしれないが、何より圧がすごいし、朝日奈の気のせいでなければ通行人たちがその迫力に引いている。
「っと、悪い悪い」
「すまなかったね。では戻ろうかコンミス。皆心配しているよ」
朝日奈が困り果てた声を上げれば、それすら楽しんでいるように二人は笑った。
桐ケ谷の手が離れ、体も離れていく。だがその最中、さり気なく朝日奈が手にしていたビニール袋が取られてしまって、「あ」と朝日奈が声を零すより早く、桐ケ谷は歩き出す。
その背を慌てて小走りで追いかける朝日奈の姿を見送りながら、刑部はマインを開いて軽く操作した。
『確保したよ』
短いその一文のみを送信した先は、スタオケの共通マイン。
次々とスタンプが貼られていく画面を確認することもなく端末をポケットにしまい込むと、刑部もまた彼女達の後ろに続くように歩き出した。