眠るまでの一時

何時の頃からか、わからない。覚えていない。
切欠は確か、ミツクニのことだっただろうか。
まだまだミツクニに名前がなかった頃。寮で飼うわけにもいかず、それならウロボロスで引き取るのもいいかもしれないとなった時、夜にマインの無料通話で語り合った。

そう、確かそれから。

それから、夜に通話をすることが増えた。
今となっては、朝日奈と桐ケ谷、どちらが多く掛けているのかわからない。
補講のこと、スタオケのこと、楽器のこと、ウロボロスのこと―――。
何でもないことだったり、愚痴だったりもした。

ただただその通話が楽しくて、嬉しかった。
その声を聞くと安心して、疲れも取れる気がした。
だから、その日はなんとなく。そう、なんとなく。

「なんか、会いたくなっちゃいますね」

なんて、冗談めかして口にしたのだ。
何を馬鹿な事を言っているのだろうと自分でも思ったのだけど、時計の針はもう十二時を回ろうとしていたけれど、それでも、言ってしまったのだ。

『なら、行くか?そっち』

だから、一瞬の間の後に柔らかく、笑ってそう言われてしまったから、その甘い誘いに、乗ってしまったのだ。

とはいえ、流石にこの時間に女子棟に行くわけにはいかない。
それも分かっていたから、桐ケ谷と朝日奈は談話室で落ち合うことにした。
流石にこの時間、談話室を使うような生徒は他にいない。
先に部屋に訪れた桐ケ谷は照明を灯し、椅子に腰を下ろすと息を吐く。

先程、「寝落ちしたらごめんな」と電話口の彼女に謝ったばかりだったけれど、あんなに可愛いことを言われてしまっては目も冴えるし、何より会いたくもなってしまう。どうせ明日にも会えるというのに、だ。
だから、あれは不可抗力だ。何より朝日奈も同じ気持ちだったのが嬉しかった。

「お待たせしました、桐ケ谷さん」
「おー。いや、大して待ってねぇけど。…それより平気なの、あんた」
明日、と問えば、朝日奈は笑う。「桐ケ谷さんこそ」と返されてしまえば笑う他なかった。

それから、自分の隣に腰を下ろした朝日奈とまた色んなことを話した。
そのどれも取り留めのないことだ。ヤスがマインで送ってきたミツクニの写真を見せれば、その成長ぶりと可愛さに話は弾んだ。
今度はいつ行きましょうか、なんて言われれば、端末のスケジュール帳を確認した。
「来週の土曜なんてどうだ?午前の路上ライブの後になっちまうけど」
それもかなりの強行スケジュールではある。けれど、それでも朝日奈は嬉しそうに頷いた。
土曜ですね、なんて反芻しながら、自分も携帯を取り出すと操作していた。

何時頃からか、なんてわからないけれど、明らかに感情が変化していることは桐ケ谷も自覚していた。
こうした時間を、彼女との時間を、自分一人が独占しているのだという事実を嬉しく感じないわけがない。
それでも、まだ、それを告げたことはない。
決定的なことを告げられたわけでもない。

とはいえ、随分と彼女はわかりやすいものだから、自惚れではなくとも感じるものはあった。
それでも、それでも、決定的な事は告げない。まだ、その必要はない。
今はただ、この緩やかな揺り籠の中にいたかった。

「…桐ケ谷さん?」
「ん?」
「……そろそろ、お開きにしましょうか?」

会話の途中で、何かに気付いたように朝日奈は桐ケ谷の顔を覗き込む。
目をゆっくり瞬かせると、視界に入り込んだ彼女のその表情は心配げにも見えた。
「やだ」
けれど、その提案には首を横に振って、まるで子供のように彼女の手を取ると握り込む。
まだ、離れたくない。まだ、寝たくない。なんて、随分と子供じみたわがままだ。
確かめるように、戯れに、その握り込んだ手への力を強めては弱めてを繰り返す。
くすぐったいのか、照れ臭いのか、微かな笑い声が漏れるのに桐ケ谷は目を細めさせた。

穏やかな時間が過ぎていく。
贅沢な時間だ、とも思えた。
ああ、こんな時は―――
「吹きてぇ気分」
「明日にしましょ。流石にこんな時間ですし」
それもそうだ、と二人で笑い合う。

大した用事なんてないのだ。
ほとんど毎日顔を合わせているのだから、話など次に顔を合わせた時にすればよいだけ。
それでも、それでも。

「………朝日奈さん?」
明日のライブのことを話している最中、ふと相槌がないことに気付いた桐ケ谷が声を掛けると、朝日奈はこくり、こくりと舟をこいでいた。
「おーい、朝日奈さん。大丈夫か。もう戻るか?…朝日奈さん」
流石に長居しすぎたかもしれない。握っていた手を離し、肩を緩く揺さぶるけれど、むずがるような声が零れるばかりだ。
「朝日奈さーん、……起きろー、朝日奈さん?」
桐ケ谷がその顔を覗き込む。
瞼が震える。けれどまだ、その瞳は開くことはない。
その様子をじっと見つめてから、桐ケ谷の唇が再度開かれる。

「唯」

その声は小さく、短く、何かを確かめるような響きだった。
一度だって、呼んだことのない彼女の名だ。
それに反応したのか、また彼女の瞼が震える。そして今度は――ゆっくりと、その瞼が持ち上がって行く。
至近距離で、視線がぶつかった。

「…っ………?……あれ、桐ケ谷さん、今…何か」
言いましたか、と。
眠そうな声は隠さずに、まだ夢うつつなことも隠さずに、ふわふわとした様子で彼女は問う。
そんな彼女の様子に、桐ケ谷は微笑んだ。
あまりに無防備だ。けれど、そんな様を見せられても溢れる愛しさを誤魔化すことなどできなかった。
「………イイエ、なんでも?」
知らなくていい。
まだあんたはわからなくていい。
敢えて何を言ったかは答えずにはぐらかすと、桐ケ谷は朝日奈の手を取って立ち上がる。
流石にそうなれば、朝日奈も観念せざるを得ない。小さく欠伸を零し、嫌がる素振りも見せなかった。

「ありがとうございました、桐ケ谷さん。おやすみなさい」
談話室を出て、廊下を歩く。そうすれば、先程まで朝日奈の頭に掛かっていた靄は完全とはいかずともある程度は晴れるようになっていた。
女子棟の手前まで来たところで、繋いでいた手が離れる。それに名残惜しさを感じないかといえば否だけれど、また明日会えるのだ。
「ん、また明日な。おやすみ」

ゆい。

音もなく紡がれたその唇の動きは、部屋に戻ろうと踵を返した朝日奈の視界に入ることはなかった。

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