「……朝日奈さん」
「…はい」
「俺が言わずともわかっているね?」
「はい……。ありがとうございます…。すみません…」
温泉旅館の階段の一角で、一組の男女が抱き合っていた。
だが、男は笑顔ながらも妙な迫力があったし、少女の方は怯えているのか照れているのか、あるいはその両方か、忙しない様子を見せていた。
時は少し遡る。
刑部が一人、浴場へ向かおうとしていた時の話だ。
刑部達の部屋がある一つ上の階に男湯があったため、刑部は階段を昇ろうとしていた。
そんな刑部の耳に、パタパタと軽やかな足音が聞こえて来たのだ。
その足音に視線を緩く持ち上げれば、その音と大差ない、楽しみで仕方ないといった様子を隠さない朝日奈が階段を下りてくるところだった。
そして彼女もまた、刑部に気付いたらしい。まるで花が開くかのように笑う。
そこまでは良かった。
『あ、刑部さん!刑部さんもお風呂です、かっ!?』
『――ッ!!』
案の定というべきか、お約束というべきか、それはもう見事に彼女は階段を踏み外した。
幸いにも、予感はあったからこそ刑部の反応も早く、大惨事は防ぐことができた。
彼女の持っていた桶は転がってしまったけれど、彼女の無事が刑部には何よりの最優先事項だ。確認をしたが、足を痛めている様子もない。
とはいえ、とはいえだ。
こればかりは小言の一つも言いたくなってしまう。
意図せず抱き合ったような体勢のまま、刑部はこれ見よがしな溜息を吐いて、冒頭に至る―――というわけなのである。
「学校でもそうだが、君はもう少し落ち着いて行動した方が良い。まして―――」
彼女が階段を踏み外した時に掴んだ手首は、そのまま刑部の手の中にある。
突然のことに硬直している彼女の体は、まだ満足には動いてくれないようだった。
そういうところが無防備なのだと、さらに引き寄せると刑部は彼女の耳元へ唇を寄せた。
「こうした場なら特に」
日常と違う場所に浮かれているのは彼女だけではない。
まして、彼女を好いている人間も、多い。
「男の理性、なんてものはね。そうそう頑丈にはできていない」
びくり、と震えた肩と朱に染まる耳に、自分の助言は一定の効果はあったようだと刑部は結論付けた。
だから、気を付けることだ。
君にはあまりに隙が多すぎる。
「…………はい、気を付けます」
彼女の顔は一向に刑部へ向けられることはない。
けれど、髪から覗く彼女の耳を見ればどんな表情をしているのかは手に取るようにわかった。