渡さない

どうにも小腹が空いて仕方ない。後片付けしている面々に一言詫びて彼等から離れた桐ケ谷が、さて、何を買うかな。とコンビニへ向かおうとしている時だった。
「ねえ、貴方!」
「……あ?」
突然呼び止められる。桐ケ谷が振り向くと、自分へ駆け寄ってくる女性がいた。
長い艶やかな黒髪を持った、気の強そうな女性だ。女物のスーツを着ているから、おそらくどこかの会社の人間なのだろうということは桐ケ谷にも見当がついた。
「さっきのライブ見てたわ。貴方のトランペットの音、とても素敵ね」
「…どうも」
女性の差し出してきた名刺を、目で軽く礼をしながら受け取る。
別に受け取らずとも良かったのだろうが、路上ライブのことを言われてしまえば受け取らざるを得なかった。
「顔もいいし体格も問題なし!ねえ、どうかしら。デビューに興味ある?」
「……………はあ?」
ああ、これは面倒くさいやつだ。と桐ケ谷は察する。
下手にあしらえばスタオケの評価に影響しかねない。
「興味ない」の一言をきっちり突きつければいいだけなのだが、自分はともかくとして大切なメンバー達の評価にまで影響するのは避けたかった。
わかりやすく眉を顰めさせるものの、女性は動じた様子はない。
どうするか、と後頭部に手を添えて髪をくしゃりと混ぜ、彼女から視線を逃す。その先に、片付けをしているスタオケの面々の姿があり、同じく片付けをしていた朝日奈と目が合ってしまった。

まずい、と思ってももう遅い。何か困っているとでも思ったのだろう。朝日奈が駆け寄ってくる。そして、桐ケ谷と向かい合っている女性の姿を見止めると桐ケ谷の隣に立ちながら、彼女の持つ空気が一瞬張り詰めた。
「あの、何か御用ですか?」
きっと目の前の女性を睨み付ける。
けれど、桐ケ谷にすら動じていなかった彼女に効果は薄かったようだ。彼女は突然の乱入者にもにこりと微笑んだ。
「あら、貴方さっきのコンミスさんね。素晴らしい演奏だったわ、ありがとう」
「えっ……あ、はい。聴いてくださってありがとうございます」
しかし、演奏を褒められてしまえば、彼女もそう応じざるを得ない。
慌てて頭を下げる朝日奈の姿を、女性は微笑ましげに見つめていた。
けれど
「ふふ…。でもね、今私は彼と話してるの」
悪いけど席を外していただけるかしら、と。口許に人差し指を立てて彼女は言う。その姿は正に大人の色気が漂うものだった。

「だめですっ!」
「ぅお」
ぐい、と不意に力が掛かるのを感じ、思わず桐ケ谷は踏ん張った。
ふと見下ろすと、大胆なことに朝日奈が桐ケ谷の腰にしっかりと抱きついていた。
「桐ケ谷さんは、うちのトランぺッターです!誰にも渡しませんっ!!」
その剣幕たるや。女性はおろか、桐ケ谷までもが圧されてしまうほどだ。

「………………」
「………………」
思わず、桐ケ谷と女性は見つめ合ってしまった。
二人してぽかんと間の抜けた顔をして、数秒。

「ぷっ……あははははは!」
高く、大きく女性の笑い声が響く。
そりゃ笑うわ、と桐ケ谷は内心頷いたし、自分はといえば笑ってしまえばいいのか何なのかわからない。あまりに強烈な殺し文句を食らった気がして、まだ満足に思考を動かせる力は戻っていなかった。
そして、朝日奈といえば何故笑われるのかわからずに目を瞬かせるばかりだ。

「あ…いえ、ごめんなさいね。悪く思わないで。ただあまりに貴方が必死だから……。そうね」
それは恐らく本心だ。女性の言葉には嫌味も何も感じなかった。
「世界を目指しているんだったわね。それなら、そうね。今引き抜いちゃかわいそうだわ」
はて、そんなことをライブの最中に言っただろうか。と朝日奈は思ったけれど、数日前ここでライブをした時にそんなことを言った覚えはあった。
どうやら、今回初めて聴いてくれたお客というわけではなさそうだ。とはいえ、こればかりは譲れないとばかり朝日奈は動かないし、態度を軟化させることもしない。
「気が向いたら連絡をちょうだい。私、いつだって待ってるから」
その女性の言葉に、またも対抗意識を燃やしたらしい。桐ケ谷の腰に巻きついた腕の力が強くなる。
桐ケ谷からは見えなかったが、きっとまた威嚇でもしているのか。目の前の女性は楽しそうに微笑んだ後、それじゃあねと手を振って去って行った。

「…………、えー、コンミスさん」
「なんですかっ」
女性が去ってしまえば、あとは桐ケ谷と朝日奈の二人がぽつんと残されるのみ。
ようやっと満足に思考が動くようになった桐ケ谷は、冷静に自分の状況を把握した後、朝日奈に声を掛ける。
顔はまだ向けなかったけれど、彼女の返答にまだきっと怒っているのだろうというのは察することができた。
だけれど。

「いい加減離してくんね?」
「……あ」
そこでやっと、朝日奈は桐ケ谷に抱き着いたままだったことに気付いたらしい。我に返ったような声を漏らし、それはそれは素早い動きで桐ケ谷を開放すると一歩下がった。
「…ごめんなさい」
流石に気恥ずかしいのだろう。俯いたまま、ボソボソと謝罪を零す。
「いや、別に俺はいいけどさ。そうやって誰彼かまわず抱き着くの良くねえと思うぞ、ほんとに」
「それはその……はい……」
反論しようとしたのだろうけれど、そう言われてしまえば頷くしかできない。その頭に獣耳が生えていようものなら、きっとしゅん…と垂れ下がってしまっているだろう。それほどまでに朝日奈は気落ちしていた。
「………あの、迷惑でした?」
沈黙の後、言葉を探そうとするかのように自分の手を弄りながら、朝日奈は桐ケ谷へ問いかける。
「なにが」
「その、勝手に断っちゃった、から」
あれほどの剣幕で噛み付いた人物と同一人物とは思えない程にしょぼくれている。
そんな彼女の言葉にははっ、と桐ケ谷は笑い声を零した。
「なんだよ、俺があのオネエサンについて行って良かったのか?」
「よくないです」
からかうように問えば、即座に否定が返って来る。
歪みねえなぁ、と譲らない彼女の姿勢に楽しげに笑うと、桐ケ谷は一つ息を吐く。
「行かねえよ。あんた以外につく気はねぇしな、俺」
ほら、と桐ケ谷は先程女性にもらった名刺を差し出した。あとの処分は任せるということらしい。それを受け取りながらも桐ケ谷を見上げてくる朝日奈の目と来たら、不安げであり、「本当にいいのか」と問うてくるようなものであった。
そんな朝日奈の様子に声を立てて笑うと、桐ケ谷は朝日奈の頭を撫でる。それから、不意に彼女の手を握り込んだ。

「え」と目をぱちくりさせる朝日奈に、桐ケ谷は笑いかけて握った手を緩く振る。
「コンビニ。行こうぜ、朝日奈さん」
いいだろ?なんてその懐っこい笑顔で言われてしまえば、朝日奈も頷くことしかできなかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です