「勧誘できないかなぁ」
今日は完全にオフな気分だった。
根性Tシャツを着た朝日奈と、黒地にでかでかと「誠」と一文字書かれているTシャツを着た桐ケ谷という、学校や路上ライブでしか彼等を知らない人が見ればきっと卒倒でもするのではないかという気の抜けた格好をした二人が、菩提樹寮のロビーのソファで二人してチューペットを食べているというある種異様な光景だ。
ちなみに、当の二人は先程までお互いの格好を指差し合い爆笑し合っていて大層うるさかったのだが、今の時間は二人しかおらず静かなものだった。
「次は誰を勧誘する気なんですかコンミス様は」
ソファの背凭れにだらしなく背中を凭れさせ、口にしていたチューペットを離すと桐ケ谷は視線もくれずに、けれど軽い笑い声を立ててそう隣の朝日奈に問いかける。
誰か、また彼女を惚れさせたのだろうか。その音色で。
全くしょうがないなと笑うけれど、それも仕方ない。まだまだこのスタオケには人手が足りない。
何より新しい音と出会うのは、桐ケ谷としても悪い気はしない。
だから、彼女の答えを待っていたのだが───
「笠高」
「ぁあ!?」
思ってもみなかった彼女の勧誘したい相手に、桐ケ谷は大きな声を上げた。
他に誰かこの場にいたら、それはそれは驚いて振り返っただろう。それほどの声だった。
当然、朝日奈自身もびくっと大きく体を震わせ、目をまん丸くしながら桐ケ谷を見つめている。
「び…びっくりした…」
「びっくりしたのはこっちだっつの。何バカなこと言ってんだあんた…。暑さで頭イカレたの?」
はー、と長い息を吐きながら、桐ケ谷は前に垂れた前髪をかき上げる。
冗談としても笑えない。まったく理解が出来ないとその眉間には皺が刻まれていた。
頭がイカレてると言われた朝日奈と言えば、分かりやすいほどにぶすくれている。
「そんなヤワな頭してませんー」
「ほー。ならコンミス様のお考えをお聞かせ願いましょうか」
一体どうして笠高なんて候補が上がるのか。
腕を組んで反応を待つ桐ケ谷に、朝日奈は残り少なかったアイスを押し出して食べると飲みこんだ。
「…だって、茨城統一なんて生温いこと言ってるから。ならもっと眺めのいいとこがあるじゃないですか」
「…………………」
「私たちが目指してるのは世界じゃないですか!」
ダン!と自分の脚を叩き、朝日奈は力説する。
世界を見せれば大人しくなるとでも思っているらしかった。
その様を目を丸くして見つめた後、ぶははははははは!!と桐ケ谷の笑いがロビーに響いた。だが、ひとしきり笑った後、朝日奈の真顔を見ると何故か桐ケ谷は疲労感たっぷりに額を覆う。これは、笑っている場合ではない。
「……あんたさぁ」
いやなんかあんたほんと凄いわマジで、と。内心ぼやきながら桐ケ谷は肩を落とした。
どうも彼女はなめられていると感じたらしい。
冗談ならば安心できるが、本気とも取れる様子なのが末恐ろしいところだった。
「俺たちは音楽で世界のテッペン目指してんの。で、あいつらはあいつらの物差しで言ってんの。根本から違うの。第一、あいつらが音楽やってるとか聞いたことねぇよ」
「いやでもほら荷物運びとか」
「労働力の意味で!?」
「今から叩き込んでも間に合わないじゃないですか」
「いや、そうだけど。いや、そうじゃねえっつーか……はあ…」
確かに荷物運びには重宝するだろう。喧嘩するだけあって体力はある。
オケメンバーとしては不安どころの話ではないし、無限に時間があるわけではない。
だがそういうことじゃない、と桐ケ谷は天を仰ぐとわざとらしい溜息を吐いた。
不良相手にも物怖じしないその姿勢は恐れ入る。恐れ入るけれども。
「無理だって。あいつら俺を恨んでるから。天と地がひっくり返ってもあり得ねぇわ。第一、喧嘩になったらどうすんだよ」
「その時は私が鉄パイプを」
「やめろよ?女の子が振るようなもんじゃねぇからなあれ?」
「男の子でも振るようなものじゃないと思いますー」
「…あのさあ」
疲れる。今なら彼女の隣でいつも溜息を零している九条の気持ちもわかる気がする。ああ言えばこう言うの塊だこのコンミスは。どう言ったらいいものかと考えながら、桐ケ谷は既に中身の空になっている彼女のアイスの筒を取り上げると自分のと共にソファ脇のゴミ箱へ投げ入れ、それから一呼吸置いて彼女へと顔を向けた。
「前も言っただろ。領分が違うんだよ。無暗に近寄ろうとするんじゃねぇよ」
「だったらもう喧嘩しないでください」
視線がぶつかる。
ぴり、と空気が張り詰める。
睨みこそしないが、表情を消した桐ケ谷がそう拒絶の言葉を吐けば、負けじと朝日奈も言い返した。
それが出来れば苦労はしない。
第一、これでも控えている方だ。昔を知っている刑部であれば、これでも明らかに喧嘩が減っていることに気付いてはいるだろう。
それでも、自分の領分を侵されては黙ってはいられないのが桐ケ谷だった。
仲間が傷つけられるのは放ってはおけない。
とはいえ、彼女の言いたい事もわかる。先日心配するということがどういうことなのか、痛いほど実感させられたばかりだ。
彼女にとって、スタオケにとって大事な演奏者なのだから、万が一があってはと恐れるのは当然だ。
こちらとしてもそれは理解している。だからこそ大きな怪我はしないようにしている。
「あんたらに迷惑は掛けてないだろ?掛けるつもりもない。第一、俺が抜けても───」
「そういうことじゃないです」
それでも退けないことがあった。第一、自分が仮に抜けたとしても刑部がいる。あいつなら大丈夫だろうと、そう言いかけたところで強く朝日奈に遮られた。
朝日奈はもう一度大きく首を左右に振ってから、真っ直ぐに桐ケ谷を見据え、口を開く。
「スタオケに迷惑を掛けないのは当然です。でも、私が嫌です」
「は…?」
「『私』が、桐ケ谷さんが怪我しちゃうのが嫌です。桐ケ谷さんに会えなくなるのは、嫌です」
「………………、それ」
分かって言ってんのか。
口から出かかった言葉は、寸前で飲みこんだ。
「刑部さんにも言いましたけど、私がお二人を世界に連れていきます。みんな一緒に世界に行きます」
知っている。
だってその時桐ケ谷はその場にいたのだ。だから彼女の決意は知っている。
「だからこればかりは折れません。みんなの音を世界に届けるのが私の望みだから」
「欲張りなコンミスさんだ」
「…そうかもしれません。でも欲張りで良いです。よくばりセット美味しいじゃないですか」
「ハッ、なんだよそれ」
「みんなで食べましょう」
その例えも何もかもが無茶苦茶だと桐ケ谷は苦笑いを零すけれど、朝日奈は朗らかに笑った。
「…わーったよ。だけど喧嘩するな、は無理だ。まだまだあいつ等にだけ任せられるわけじゃねえからな。でも、無茶はしねえよ。約束する。…あんたにああ言った手前、格好もつかねえし」
彼女に、無茶をするなと言った。
あの時、矢坂に怒りのまま口を挟んだ彼女の姿に肝が冷えた。
自分は別にどうだっていい。怪我することなど慣れている。罵詈雑言を浴びるのも慣れている。だが彼女に何かあれば、それこそ彼女の夢を潰しかねない。
何より、そんなことになる彼女を見たくなどなかったし、そうなったら桐ケ谷は自分を許せないだろう。
ただやはり「喧嘩をするな」は無理だ。と桐ケ谷は言った。それでも譲歩が見られたからなのだろう。朝日奈は渋々ながら頷いて、それを見た桐ケ谷は目を細めさせた。
「ン」
不意に、桐ケ谷が小指を立てて朝日奈の方へと向ける。
「…なんですか?」
「指切りしようぜ、コンミス」
突然のことに目を瞬かせる朝日奈に、そう言って桐ケ谷は笑った。
「あんたが世界に俺を連れて行くっていうなら、俺もあんたを世界に連れて行く。みんなで行こうぜ、世界」
桐ケ谷がそう言えば、朝日奈はしっかりと首を縦に振ってから彼の小指に自分の小指を絡ませた。
それは、子供じみた行為であり、子供じみた誓いだった。