「…?あれ?」
夕食を終え、今日最後の練習と息巻いて朝日奈は練習室へ足を運んだのだが、練習室の扉が僅かに開いているのに目を瞬かせる。
しかも、中から音も全くしなかった。
閉め忘れかな、と疑問符を浮かべたまま、朝日奈は扉を更に開いて練習室の中に入り込む。
すると…
「あ」
目に飛び込んできたのは、複数あるパイプ椅子の上に置かれたトランペットだった。
金色のトランペット。大事に手入れされているトランペットであり、朝日奈には覚えがありすぎるものだ。
「…桐ケ谷さん、どこいったんだろ」
室内を見渡しても、その姿は見られない。隠れるようなスペースだってない。
トランペットを忘れてどこかに行くという人とも思えなかった。
マウスピースは嵌められているから、吹くつもりだったのだろう。
マインで連絡しようにも、今日はとことん集中したかった朝日奈は、携帯を自室に置いてきてしまったので連絡手段もない。
何より、桐ケ谷の手元に携帯があるとも限らない。
「…まぁ、すぐ戻ってくるかな」
考えても埒は明かないだろう。朝日奈は、パイプ椅子の上にヴァイオリンケースを置くとケースを開けようとして――――ふと、何かを思い立ったように視線をトランペットへと向けた。
ふと湧き上がったのは好奇心。気が付けば、ヴァイオリンではなくトランペットの方に朝日奈の手が伸びる。
大事に大事にトランペットを持ち上げると、当然ながらヴァイオリンとは全く違った。
「こうなってるんだ…」
手に感じる質量。金管の滑らかな感触。金管は練習室の照明を反射して、綺麗だった。
これを巧みに操りながら、彼は音を奏でているのだ。
ほぅ、と知らずに溜息が漏れる。
朝日奈の脳内には、彼のトランペットの音が鳴り響いていた。
だから、気付かなかったのだ。
「……何やってんの」
「!?」
大袈裟とも言えるほどにびくりと体を震わせて、朝日奈は振り返る。
すると、開かれた扉に頭をつけるように凭れ掛かり、こちらを見つめるトランペットの主の姿があった。
様になる、いやそうではない。
驚きのあまりトランペットを落とさなかったのは幸いだった。
けれど咄嗟に言葉が出て来ず、断片的な声しか漏らさない朝日奈の表情は、それはもう「悪戯が見つかった子供」の顔だ。
それがあまりに面白かったのだろう。桐ケ谷は顔をくしゃりと笑いに歪めると、扉から身を離して室内へと入り込む。
「き、き、桐ケ谷さん、どこ行ってたんですか?」
「ん?あー、水取りに行ってたんだよ。ついでに歯磨いてた」
確かに彼の言う通り、彼の手には水の入ったペットボトルが握られていた。
「何、吹いてみたくなった?」
トランペットを両手で握り込んでいる朝日奈の姿に、桐ケ谷は目を細めさせる。
その問いに、朝日奈はわかりやすく視線を彷徨わせた。
「いや、そういうわけじゃ…。ただ、あの、どんな感じなのかなって」
「ふぅん」
朝日奈のヴァイオリンケースの隣に、桐ケ谷の持ってきたペットボトルが置かれる。
彼女の言葉が終わらない内に、既に桐ケ谷は彼女の真後ろに立っていた。
「……あー、駄目だ朝日奈さん。そんな持ち方」
「へ?」
「こう」
桐ケ谷と朝日奈の身長差だ。少し桐ケ谷が下を向いただけで、彼女の手元は十分に見て取れた。
間の抜けた朝日奈の声に応じることなく、桐ケ谷が伸ばした両手は朝日奈の手の上からトランペットを握り込む。
その大きな手は、すっぽりと朝日奈の手を隠してしまう。
「え」
なんだろう、これは。
何かが、おかしい。
戸惑う朝日奈をよそに、桐ケ谷はトランペットを落とさないようにしながら朝日奈の手を誘導させる。
「ここでしっかり支えないと安定しねぇの。で、こっちの手のひらでも支える」
言っていることはわかるし、その誘導は的確だった。
けれど朝日奈はそれどころではない。真面目に取り込もうとする自分と、何やら落ち着かない自分がいるのを感じていた。
なんだろうこの状況は。
いや、桐ケ谷は親切心で教えてくれているだけだ、と朝日奈は自分に言い聞かせる。
それでも、それでも、意識せずにはいられない。
ふわりと漂う香りは、桐ケ谷の匂いだ。
髪を、頬を擽るのは、これは彼の。
ああ、全く。
こんな細い手指をしているのに、その気になればこうやってその動きを封じるのだって容易いというのに、無防備が過ぎる。
朝日奈の変化に気付かない桐ケ谷ではなかった。
だって、覗く耳は朱に染まっているし、心なしかその手だって熱くなるばかりだ。
だが、桐ケ谷はそれが逆に嬉しくてたまらなかった。
そうでなければ、意味がない。
「吹いてみるか?…朝日奈さん」
トランペットを握り込む彼女の指を、手の甲を、辿るように指で撫でる。
その髪に鼻先を埋めて、そう囁いたのはわざとだ。
だって彼女にそのつもりがないというのは明らかだった。
本当に、触れたかっただけだったのだ。恐らくは。
けれど、仮に彼女が頷いたとしても、桐ケ谷は一向に構わなかった。
だってその対象が自分に向けられているのだから。
「……っ!結構です!」
ようやっと振り返った彼女は、それはもう面白い顔をしていた。
真っ赤な顔は隠しようがなく、怒りに眉が吊り上っている。
愉快さを隠さずに桐ケ谷は笑い声を零し、それによって朝日奈の眉根は更に寄せられていった。
怒った顔もかわいいな、なんて思う自分はそろそろ末期なのだろうと自覚しながら、桐ケ谷は今度こそ朝日奈の手からトランペットを取り上げると、先程までのことが嘘のように彼女から体を離す。
「あんまり、他人の楽器に触れない方がいいぜ。…食われちまうから」
あんたがいいなら、止めないけど。
言外にそう含ませて、桐ケ谷は笑った。