心揺らす音

どこからともなく音色が聴こえて、その音に桐ケ谷はゆっくりと瞼を持ち上げた。
耳を澄ませなくとも解る。ヴァイオリンの音色だ。
そしてこの音色は、間違えるわけがない。
数日前に同じ船に乗り込むことを許してくれた、コンミスの奏でる音色だ。

「…あー、もうこんな時間か…」
ちらりと視線を枕元に向け、携帯の液晶を操作する。
そこに表示された時刻を確認すると体を起こし、あふ、と大口を開けて欠伸をすると桐ケ谷は腰を上げ、洗面台へ向かった。

先程から聴こえる音は、時々つっかえては、また最初からやり直す。その繰り返しだ。
それでも不快なものではなく、自然と笑みが零れてしまう。
想像出来てしまう。
あの、楽しげに、嬉しそうに、音を奏でている姿が。

「………?」
数回のノック音に、朝日奈はヴァイオリンを弾いていた手を止める。
壁時計に一瞬目をやるが、まだ弾き始めて大して時間は経ってはおらず、続いてその視線を扉へと向けた。
ドアノブが捻られ、扉が開いていく。そこから姿を現したのは――数日前、粘りに粘ってスタオケに迎え入れることが成功したトランぺッターの一人、桐ケ谷だった。
「おはよ、コンミス」
「おはようございます、桐ケ谷さん。でももうお昼前ですけど」
あの日々と変わらず笑みを浮かべた桐ケ谷の挨拶に、同じく朝日奈も笑いかけた。
桐ケ谷のその手にはトランペットが握られている。
「桐ケ谷さんも練習ですか?」
「そんなとこ。あんたの音聴いてたら、いてもたってもいられなくなっちまってさ」
言いながら、桐ケ谷は後ろ手で扉を閉めた。
一緒にやろう、とは、どちらが先に提案したのか。はたまた、同時に口にしたのか。
ヴァイオリンの音とトランペットの音が共に音楽を紡ぎ出すのに、あまり時間は要さなかった。

「やっぱり、素敵ですね」
「ん?」
「桐ケ谷さんの音。力強いのに優しくて、天に抜けていって」
一曲終わった後、水分補給をしている桐ケ谷を横目に朝日奈はしみじみと言葉を漏らした。
何のことかわからず目を瞬かせる桐ケ谷に、朝日奈はそう言って笑いかける。
そして、「いいなぁ、いいなぁ」そう朝日奈は言いながら、自分のヴァイオリンとにらめっこしていた。
その様子にふはっ、と桐ケ谷の笑いが漏れ、彼はそのままパイプ椅子を手繰り寄せると後ろ向きに座った。
「トランペットの真似は無理だろ」
「別にトランペットの真似をしたいわけじゃないですー。私もそういう音出せるようになりたいなって」
こう、優しくて、染み入っていくみたいな、そういった音。と弓の先で円を描きながら朝日奈は口を尖らせた。
「だって、最初に聴いた時一目惚れしちゃったんですよ。そんな音、桐ケ谷さんにしか出せないじゃないですか。すっと人の心に入り込んで、あっという間に皆を夢中にさせちゃうんですよ」
水戸を訪れた初日に、どこからともなく聴こえたトランペットのあの音色に誘われた。
その音色は自然と心に入り込んできて、優しく染み渡っていくような、広くて、けれど優しく穏やかな音だった。
それを思い返しながら、朝日奈は目を細めさせて微笑んだ。まるで、恋をしているかのように。

だから、その音色がこのオケに欲しかった。
彼等の紡ぐ音が、どうしても必要だった。もっともっと、たくさんの人に聴いて欲しいと思った。

「…………ふーん」
真っ直ぐに向けられた言葉に、桐ケ谷は今度こそ面を食らった。
なんだか異様にこそばゆくて、眉を顰めさせると髪をくしゃりと混ぜる。
褒められるのは悪い気はしない。自分の奏でる音で彼女を魅せられたというなら、嬉しくないはずはない。それは音楽をやる者であれば誰だってそうであろう。
だが、この状況で真っ直ぐに伝えられるとむず痒くてしょうがなかった。
それに、「夢中にさせる」というのなら。
「いや、あんたも大概だと思うけどな」
「そうですか?」
悔し紛れに返すと、朝日奈は目を瞬かせる。
無自覚かー、そっかー。とその性質の悪さに内心溜息を吐きながら、桐ケ谷は言葉を続けた。
「あんたのその音はあんたにしか出せないだろ」

あまりに楽しげに奏でるものだから、一緒に吹きたくなる。
あまりに楽しげに奏でるものだから、傍でその姿を見たくなる。

より高く、より高く。
音楽を奏でられる喜びを歌うように、彼女のヴァイオリンの音色は人々の耳に届く。
彼女が所謂「天才」であるとは思わなかった。けれど、何度も躓くことを繰り返しながら、高く奏でられる音は確実に桐ケ谷の心に届いていた。

「あんた達の音が、俺らに思い出させてくれたんだぜ。コンミス」

家柄も立場も何も関係がなく、音楽を楽しむ仲間達と共に奏でることがこんなにも楽しいということを、仲間達みんなで奏でるその喜びを再び揺り起こしたのは紛れもなく彼女達の力だ。
だからこそ負けられない。常に最高の音を、共に奏でられるようになりたい。届けたい。

「さて、と。もう一曲やるか」
これ以上は言葉も不要だろう。
まだ時間はある。この後食べる昼食はきっと格別に違いない。
朝日奈の返答も待たずに、再び立ち上がった桐ケ谷はマウスピースに口をつける。そして、ちらりとその視線を彼女へと向ければ、朝日奈は嬉しそうに笑った。

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