諦めの悪い

「諦める」というのは簡単なのだと思い込んでいた。
今まで似たようなことがなかったかと言えば嘘になる。
だから、あの大人の判断も間違っているとは思わなかった。

今までと同じだ。
遠ざければいいだけだ。
そうすれば自然と忘れていく。忘れていける。

けれど、そうは思っていても、気が付けばトランペットを手に取っていた。
一度手に取ってしまえば、もう、手放すことなんてできなかった。

「……っ…くそ………」

漏れ出た声は、情けなく震えていた。
耐えようと思っても、次々とこみ上げるものが許してくれなかった。

幸いなのは、そこは真っ暗で、自分以外は誰もいなかったことぐらいだった。
泣き叫んだところで、誰一人聞く人なんていないのだから。

「………………」
最悪な目覚めだ、と忌々しげに刑部は顔を歪めた。
昨日、家に帰って来てからもずっと生徒会の仕事に追われていたし、余計な事を考える間などなかったはずだった。
と、その時机の上に置いていた携帯のバイブが鳴る。
体を起こし携帯を取ると、その液晶には最近出会った少女の名が表示されていた。

「……ああ、朝日奈さん。おはよう。どうかしたのかい」
そういえば今日は路上ライブをやると言っていたなと思い返しながら、刑部は努めて平常の調子で彼女に声を掛ける。
『…………』
「朝日奈さん?」
返答がない。
怪訝に思い、さらに声を掛けると、何やら慌てたような小さな声が届いた。
『…え、いや、すみません。……お忙しかった、ですか?』
こちらを気遣っているらしい彼女の様子に、らしくなく自分が取り繕う事を失敗したのだと刑部はその時思った。だが。
「妙な事を聞くものだね。まぁ、君の電話でこちらは起こされはしたが」
『ご、ごめんなさい…!』
「朝日奈さん」
壁時計の時刻を確認する。時刻は午前10時を回っていて、毎朝早い何時もの自分としては珍しいと思いながら事実を告げると、予想通り彼女は謝ってきた。
普段ならそこで刑部も笑うことができただろう。それが「普段」の彼女の様子であれば。
だが、感じた違和感はあまりに無視できないものだった。
その声に、一気に頭に掛かった靄が晴れていく。

なぜ、声を潜める必要がある?

「誰かいるのかい」
瞬間、ぞわりと全身が粟立つ。発した声は、思いのほか低いものだった。

「…た…助かりました…」
「それはよかった」
彼女の異変を感じ取ってから、刑部の行動は早かった。
できるだけ答えやすい質問に努め、身支度は最小限に家を出た。
逃げてきた彼女と橋の下で合流するまではそう時間も掛からなかったし、手間も掛からなかった。
周囲にも、そういった類の人影は見当たらない。ひとまずは安心かと刑部は内心安堵した。

曰く、路上ライブの最後の確認に来たところ、桐ケ谷に恨みを持つ不良に絡まれたという。
ウロボロスの改修も順調に進んでいる中で、妨害しようとする人間が出るのは予想できないことではなかった。

当の桐ケ谷はウロボロスの改修作業を見に行く予定だった。
不良から全力で逃げたはいいものの、だからこそ余計にウロボロスに近づけさせるわけにはいかなくなり、思い浮かんだのが刑部だった、ということらしい。

「すまないね、こうなることは俺もあいつも十分予想できたはずだったんだが」
「い、いえ…!私が不用心に出歩いたのがそもそも……」
「おや、自覚はあるようだ」
「うっ」
「だが、君の判断は間違ってはいなかったようだね」
操作をやめた携帯の液晶から目を離し、刑部はそう言って笑いかける。
携帯に表示されたマインでは、桐ケ谷からの短い「了解」というメッセージが返ってきていた。
不用心であったのは間違いない。他のスタオケのメンバーか、あるいは桐ケ谷を連れていれば未然に防げたことだ。
とはいえ、すぐにその場を離れた決断くらいは褒めても罰は当たらないだろう。
ほんの数秒、数分判断が遅れていたら、最悪な事態に陥っていたのかもしれない。
「でも、こうなっちゃったら路上ライブの場所を変えなきゃですね…」
体育座りをしたまま、そう言って朝日奈ははー…と長い溜息を吐いた。
「いや、そうでもないよ」
「へ?」
「そういう輩は、大抵は一人きりでないと手を出せない臆病者と相場が決まっている。路上ライブを始めたところで、それを潰す度胸はないよ」
今までの彼女の話を聞く限り、毒島たちの影は感じられない。
それならばひとまずは安心できる。
そういった小物の行動を封じるのは、桐ケ谷も刑部も慣れている。
「とはいえ、我らがコンミス殿に手を出したんだ。それなりの返礼はさせてもらうがね」
そう言って刑部が見事に綺麗な笑みを浮かべてみせると、朝日奈は分かりやすい程に肩を震わせる。
良い反応だ、と刑部は目を細めた。
既に彼女から聞いている情報は桐ケ谷と共有済みであり、断片的な情報ながらその不良がどこの人間であるのかは見当がついていた。

「こわいかい」
「え?」
「俺たちを世界に連れて行く、というのはこういうことだよ。コンミス」

水戸では、今回のように他校の不良が因縁をつけてくる。
大人は、大人の権力を自在に使って潰そうとしてくるだろう。今回のホールの一件のように。
前者はどうにでもなる。だが後者はそうはいかない。
それが世間一般の、大多数の「声」だ。
彼等は、どうすれば相手を潰せるのかを知り尽くしている。

「それ、諦めさせようと思って言ってます?」
立ち上がった朝日奈は、まずズボンについた埃を払ってから刑部に向かい合った。
「生半可な覚悟をされていては、こちらも困るのでね」
生半可なものか。
ひと月にも満たない関係ではあるが、それでも彼女の熱意が本物であることは理解していたし、つい先日それを痛いほどに突き付けられたばかりだ。
彼女に言った言葉を、違えるつもりはない。
だが、恐らくこれが最後とはなるまい。

世界を目指すのであれば尚のこと、周囲の目は厳しくなる。

彼女の熱意は知っている。心から音楽を楽しみ、愛しているのも知っている。
だからこそ、
彼女にはこの先折れてほしくはない。
捨てきれない想いに泣く子供など、いない方が良い。

そしてその原因が、もし自分であったなら、今度こそ刑部は自分を許せない。

視線がかち合う。
どちらも視線を逸らすことはしなかった。
目の前にいる相手の真意を読み取ろうとするかのように、数秒無言で視線が絡み合う。
そして───、刑部を見上げていた双眸がふと緩まり、彼女は笑った。

「そんなの、黙らせればいいんですよ」
世界一のオーケストラを目指して活動しているメンバーを率いるには、あまりに乱暴だった。
理路整然と理屈を並べ立てる人間より、よっぽど乱暴だった。
「私たちの音楽で、黙らせちゃえばいいんですよ」
それでも、彼女の言葉は魔法のようだった。
そう言ってのける彼女を恐ろしいと思いながらも、それでも彼女の言葉は、音は、刑部の心を震わせる。
それがたとえ一時のまやかしであっても、刑部の心を軽くさせる。

何度だって諦めようと思った。
それが賢い生き方だと知っていた。
今度こそ、と手を伸ばしたところで、いつだって届かなかった。
その度に傷つくのは自分なのだ。
なら、最初から手を伸ばさない方が利口だろう。

「私、刑部さん以上に諦め悪いんで大丈夫です」
悪戯っ子のように、朝日奈は笑う。
「大丈夫です」
そして、もう一度彼女は繰り返す。
そんな彼女の姿に、刑部は苦く笑った。
「それは、心外だね」
「え?」

根拠のない自信。
根拠のない言葉。
根拠のない笑顔。
本当に子供だ。根拠のない自信と未来に能天気に笑ってみせる。
この笑顔が、いつか曇ってしまうことが、それが、恐ろしい。
けれど。

『そんなの、させないようにすりゃいいだろ。俺たちで』

そうだ。答えは単純明快だった。
例え自分達に出来ることが限られていようと、最初から無駄なことはないのだから。

「コンミス殿は、俺の諦めの悪さを甘く見ているようだ」

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